寝坊をした。急いで大学に行って授業を受けた。講義の後、指導教官に書類のサインを貰いに行き、そのまま30分ほど話した。話した、というよりも話を聞いていたと言った方が正しいのかもしれない。

一つ一つは通常の範囲にすっぽりと収まる日常的内容だった。しかしその些細な日常の話の積み重ねにこそ、生の息吹を感じる。小さな話は手に握り込みやすい。遠くの戦争よりも、他人の日常が私の生に色を付ける。

最近仕事が忙しいのだ、と彼は言った。話を聞けば実際忙しいであろうな、と容易に推察出来る内容だった。私は微笑んで「それはお忙しいですね」と曖昧な返答をした。ふと気を抜けば宙にぽっかりと浮かんでしまう位に軽やかな会話は、私が求めていた類の軽さだった。今の私が持てる程度の軽さだった。それは恐らく意外と人間関係について不器用である指導教官の気遣いだった。私が来たせいで、手のつけられないまま置かれた出来合いの弁当と目があった。

そのまま研究室に行き、研究室の帳簿を付けた。帳簿と実際の金額が合わず、首を傾げた。研究室費の数え間違いだろうと暫定的に結論を出して、学友の淹れたコーヒーを飲みながら暫く勉強をした。講義の最中からずっと、酷い雨が窓を叩いていた。

気付けば雨は止んでいた。太陽の光が雲間から見えすらしていた。そのまま地下鉄に乗り、街へと行った。気分転換は敢えてしようと思わなくては出来ない類のものだった。欲しかった漫画は売り切れていたので、その場でAmazonで注文し、違う本屋に行った。哲学書を買おうと思っていたのに、本棚の前に立った時には哲学書を買う気は失せていた。こんな事は今までなかったので、奇妙だった。欲しい本、読みたい本、読まなくてはならない本は目の前に沢山ある。しかし、何も手にしたくなかった。その時の私にとって、目の前の本達は、冷たく、息をしていない、ただの文字の集合が印刷された紙の束にしか見えなかった。一度は腕に抱いた本を、そっと本棚に戻した。これでよいのだ、としか思えなかった。

変だ。

今日は奇妙だと訝しがりながら、階下の文庫本のコーナーへと赴く。途端に紙の束は息を吹き返し、甘やかな「本」として現れる。よく分からなかった。疲れているのだと説得めいた結論を出した。疲れているから、頭の使う本を目にしたくなかったのだ、と思う事にした。或いは、今日は、平常潤い滴っている哲学書がパサついた無味乾燥な物になる日だったのかもしれない。今日だけは、そうだったのかもしれない。

『存在の耐えられない軽さ』と『結ぶ』を買った。『結ぶ』は昔買っていたかもしれない、とレジに向かいながら思った。すでに家にあるかもしれない。しかし、家の本棚に並ぶ小説を覚えていない程、私は小説と別離していた。十代の頃の私が聞けば信じられないと眉を顰めるだろう。あの頃は小説がなければ、文字通り生きていけなかった。

今はなくても、生きていけるのだろうか。それは違うのだろう。あの頃、本から得て蓄えた生きる力を削って生きているのだとずっと前から気付いていた。その蓄えた力が尽き果て、この私が今ここにある。結局、今も昔も、虚構を通してでしか現実に向かい合うという事が出来ない。私は本当に弱い人間なのだ。お笑いだ。

 

栄養バランスを考えてものを食べなさい、と昼間指導教官に言われたので、ファミリーレストランに入ってスパゲッティとほうれん草のソテーを頼んだ。スパゲッティを外で食べる時、東海林さだおのエッセイを必ず思い出す。スパゲッティをフォークで巻いて食べる人間は、スパゲッティを実際咀嚼している時間よりもスパゲッティをフォークに巻きつけている時間の方が長い、と東海林さだおは言っていた。つまり、スパゲッティをフォークに巻きつけて食べる人間は、スパゲッティを食べるというよりも、スパゲッティをフォークに巻きつけていると言った方が正しいのではないか。皆本当はうどんや蕎麦をすするようにしてスパゲッティを食べたいのに、人の目が気になってそれが出来ない。だから人はスパゲッティをフォークに巻きつけて食べる。そんなユーモアのあるエッセイだったと思う。外圧に関する哀しい話だ。

そんな事を考えながら、ぼんやりとスパゲッティを食べた。いつもより時間がかかった。冷房が効き過ぎていて、酷く寒い。

すっかり冷めきったほうれん草のソテーを食べながら、買った『存在の耐えられない軽さ』を読んだ。恋愛小説は基本的に読まない。この本は恋愛小説らしかった。恋も知らず、猜疑心で最後の最後には愛を退けてしまう弱い人間が恋愛小説を読むというのはそぐわない気がしていた。しかしそれを重く受け止めるのは明らかに馬鹿らしいので、煙草を薫せながら読んだ。ドン・ファンと言えば聞こえはいいが、一言で言ってしまえば結局遊び人である。そのような男が戸惑っていた。堪らなく哀しくなった。言葉が突き刺さるようで、十分の一程度読んだところでページを閉じた。

我々の存在は恐らく軽い。その軽さこそが愛おしいのだと信仰して生きてきた。重さを得られない通常の生は、うねりに耐え切れず醜く歪み、千切られる。千切れても誰も目に止めない、現れては消えていき、代替の別様が現れる事が至極当たり前の摂理であるような、そのような代替のきく生が美しくなくては、私の生は醜さで塗り潰されてしまう。だからこそ、私は軽さを愛しんできた。その軽さを愛する事は、直接には目も当てられない自らを、婉曲的に愛する術だったのかも知れない、とふと思った。私の信念は歪みに歪みきった自己愛によって致命的に穢されている。今はただその事実が哀しい。心臓の鼓動が鼓膜を震わせ、周囲の音を掻き消そうと騒ぐ。ひたすらに煩い。

 

ほうれん草のソテーをもうすぐ食べ終わる。そうしたら私はゆっくり歩きながら駅に行って、地下鉄に乗って帰るのだろう。肌に纏わりつく温い宵闇の中、歌でも歌って帰ろうか。