ブログがある。ブログに書きたい事や書ける事が特にないのに、何の害にも利益にもならない文章を書きたいという欲求がある時が一番困る。

つまり疲れすぎると脳が覚醒しすぎてうまく眠れないので、脳の覚醒を緩めたい、よーするにリラックスさせたいので無為な文章でも書いてぼんやりと世界や文字の羅列を眺めたい、鮮烈さなどもう要らないという夜が確実にあり、今がまさにそれなのであるが、特に書きたい事がない。困る。

大体ブログなんて書きたい事がある時や或いは自分の人生についての考えを整理する時に書く、みたいなゆるふわなスタンスでやるのが個人的には一番楽なわけで、いつも自分勝手に書いてはそのまま放り投げている。アクセス解析なんかもあんまり見ない。このブログを読んでくれている人がいるのは正直に嬉しいのだけれど、それでもやっぱりちょっとだけ恥ずかしいのは、余りにも自由で自分勝手にこのブログが書かれているからだ。ツイッターの呟きの方がまだ見られている事を意識している。でまあ、なんか書こうと思いつつ、でも書きたいテーマが未だ特に見つからず、明らかに無駄な延命措置みたいな文章を書き続けているわけだけれども、何か書きたい事があっただろうか。色々とある筈なのに、結局手元には何も残っていない。いや、実際この手にはたくさんの考えや気持ちがある筈なのだけれど、言葉にできる程それらはソリッドじゃないという事だ。まだ液体で、熱くてデロデロしていて、掴めない事が多過ぎるのだ。もっと冷やさないと固体にならない。アレについて書きたいけれど言葉にならない、みたいな事が日常において重なり過ぎるとげんなりしてくるので、まあ何とか息を吹きかけてちょっとでも固体化させたい気持ちはある。でも自由に書いているブログにすら書けない類の気持ちだってある。大体言葉にならないのはそういう類の感情だ。更に面倒くさい。

それは例えば生まれ持った変えられない属性の事であったり、余りにも生々しすぎる事象についての事であったりする。(このブログを今書いている所謂「私」に限定されない)私が私としてそのまま生きる事の困難さについての事であったりする。

生みの苦しみか或いは死に絶える時の断末魔か分からない事象の観測が続いて、なんだか嫌だなと思う頻度は高まる。ぼんやりとした感情はぼんやりとし過ぎていて掴みどころがない。「嫌だな」という何とも心許ないふわりとした表現でしか表現できない歯がゆさと諦観がある。唯ぼんやりとした不安。もっと激しく赤く燃えねばならないのだろうか。今のように青く静かに燃えるだけでは足りないのだろうか。ただ、残念ながら私は激しく燃える事には向いていない。私が激しく燃える事が出来るのは、ただひとつにおいてだけだ。私は私が出来る範囲の事を行う事しか出来ないけれど、それは本当に本当に狭いから、そして何より確実に行使出来るわけではないから、まるで意味なんてないみたいだ。それでも恐らく燃えないよりかは燃えている方がましなのだ。

ぼんやりしている。なにせ平素のようにこれについて書こうと思って書いているわけではない。ただまるで自動書記のようにぼんやりと目的地も決めないまま書いている。ぼんやりとした感情について書いているから、ぼんやりした表現が続く。曖昧模糊で淡い色の、すりガラス越しの像のような文章。

苦しみや怒りや悲しみがそれぞれの人間の内にあって、それがちょっとでも減ったらいいなと単純に思っている。そしてそれに私も多分入っているのだと最近ふと思う。大きな進歩ではあるとは思う。他の人に対しては幸せを素直に願えるのに、自分についてはそうではないという歪みみたいなのがずっとあった。私の生を踏み台にして他人が幸せになれるのなら、私はそのためにだけ存在しているのだと信じていた。自分の幸せや自分の生なんて他人のそれに比べればちっぽけで価値なんてないから、私は他の価値のある存在を輝かせるためだけに存在するし、そうであるべきだと思っていた。私の生は常に他人のための生であって、私のための生ではなかった。これは私にとって歪みでもなんでもなかった。当たり前だった。でも、これは歪みなんだと最近ぼんやりだけれど分かってきた。私は私のための生の只中にいて、そして幸せになってもよいのだろう、多分。

治ってない今、こういう事を言うのはまだ早いけれど、去年と今年は私の人生にとって重要な地点だったのだと思う。一回完全に折れて、全てが焼けこげて何もなくなった更地に戻さないと、どうしようもないレベルまで到達していたのだろう。だからよかった、とまでは正直まだとても言えないけれど、死に絶える時の断末魔だと感じていた苦しみは、生みの苦しみだったのだ、とぼんやり思う。この半年、焼け果てた更地を耕してきた。冬が終わって春になるのが怖かった。春になっても何も起こらないのが怖かった。でも、冬を越して、春を通り過ぎて、夏になって、ようやく焼け野原にひょろりとした細い若葉が生えてきた感覚がある。大事に大事に育てたいと思う。結局何かしらの何かは生えてくる。生きてさえいれば。やっぱり生きているのは楽しいな、とまた思えただけで私は嬉しい。

自分の生は自分のためにあるのだという事をぽとりと落としている人はまあまあいる気がする。ぼんやりと何だかそれはとても嫌だし哀しいなと思う。だから、私がそれをぽとりと落として生きてきたのは何だか嫌で哀しい事に属する種類の事なのだろう、と繰り返し思わないとまた簡単にぽとぽと落ちていく。認知が歪んでいる事は分かっているけれど、それの修正にはやっぱり時間がかかる。気付いたら更地に建造中の家の柱が斜めになっていたりする。それを修正してまっすぐにしようとする。でもやっぱりまだ斜めだ、みたいな行ったり来たりの繰り返ししかないのだろう。27年生きてきてしみ込んだ認知をすぐに治す事なんで出来ないのだ。小さな家を少しずつ建てながら、畑を耕している。柱が斜めになってるよだとか畑に水やるの忘れているよだとかそういう事を教えてくれたり、まあゆっくりやりなよと言ってくれたり、斜めになってますか?と相談出来る人が周囲にいるのは、幸運だと思う。

ぼんやりしているから目的地がない、とさっき書いた気がするけど、本当に着地点がない。そろそろ打ち切らないと延々とどうでもいい事を書いてしまう気がするな。

他人の幸福を願うのはよい事だけれど、その前に自分の幸福を願ったっていいんだよ、と気付けたのは、きっと周囲の人たちのおかげだと思う。素敵な人が周囲に多過ぎて、私はそれだけで人生の内の幸福をほぼほぼ使ってしまっている気がする。

愛しています。着地点はいつでもきっと愛なんですね。