こんばんは。異様に長いブログです。

=====

僕には同居人がいる。名前をミリちゃんという。

ミリちゃんの年齢も性別も僕は知らない。そういえば今までそれについて考えた事すらなかった。僕にとってはミリちゃんの年齢も性別もどうでもいい些末な問題だから、そんな事を気にした事がなかったのだ。ミリちゃんは何故か分からないけれど目に付きやすいというか変な意味で目立つというか、比較的覚えられやすい人だと僕は思っている。傷んだ髪をワンレングスにしていて、今はちょっとだけ痩せすぎている。化粧を些か過剰なくらいしっかりとしていて、いつもちょっとだけ二の腕とふくらはぎが太すぎる。体型も顔の作りも特段よいわけではない。化粧を落とすと、途端にぼんやりとした掴みどころのない顔になる。どこにでもいる、というのは実際と照らし合わせた時色々な意味で間違っていると思うけれど、広く言えばそこら辺に普通にいるような見た目の人間だ。そんなミリちゃんは決して笑わない。微笑すらしない。ひょっとしたら僕以外の人間には女神みたいに優雅な笑顔を見せているのかもしれないけれど、少なくとも僕の前では、ミリちゃんはいつも怒りしかない硬い表情をしていて、僕を鮫みたいな目で睨み付ける。そしてミリちゃんは極度の人見知りで神出鬼没だ。ミリちゃんは僕が知り合いの人と一緒にいる時は基本的にいつもどこかに隠れている。ミリちゃんは僕しかいない時だけ足音をガンガン響かせながら突然やって来るのだけれど、いつ僕のところにやって来るか僕には全く分からない。僕が家でぼんやりしている時かもしれないし、喫茶店で勉強している時かもしれないし、布団に入った時かもしれないし、お風呂に入っている時かもしれないし、地下鉄に乗っている時かもしれない。ミリちゃんがいつ訪れるのか、それはきっとミリちゃんしか分からない。ミリちゃんはちょっとだけ自分勝手でちょっとだけ我儘で、そして何よりとてもとても自由だ。

(僕とミリちゃんの事については、フィクションだと思ってくれて全く構わない。僕の作り出した物語だと思ってくれた方がこちらとしても気が楽だ。だからこそちょっぴり小説風に始めたのだ。僕とミリちゃんの事は、畢竟、僕とミリちゃんにしか理解できない。でも、正直に言えば僕はミリちゃんの事を今のところ全然理解できていない。これを読んでくれているあなたの事を僕が完全に理解できないのと多分同じ事だ。)

ミリちゃんによれば、僕とミリちゃんは魂で繋がっているとのだという。僕はそれを聞く度に「魂という表現は何だかスピリチュアルな意味合いを含んでしまう嫌いがあるし、あんまし使いたくないなあ」と思う。けれど、ミリちゃんが言いたい事は分かるし、魂という表現はその言いたい事にぴったりとしている。だから僕も魂という表現をとりあえず採用している。ミリちゃんの言う事はピンとこないけれど、常識的に考えれば正しいのだと思う。実感の伴わない理解なんてミリちゃんは要らないかもしれないけれど、僕も取りあえずは「ミリちゃんと僕とは魂で繋がっているのだ」と理解している。でもそれなのに、僕とミリちゃんはいつも正反対だ。ミリちゃんはいつも激しく怒っていて、絶望している。ミリちゃんの感情はチカチカ光る火花みたいに激しくて、鮮烈だ。ミリちゃんはその有り余る鮮やかさに乗っかって、衝動的に行動しようとする。ミリちゃんは僕を殺したがっている。僕は怒りたくないし、絶望なんてしたくない。僕は自然な寿命が訪うまでなるべく死にたくない。ミリちゃんの怒りと絶望の標的はいつも僕だ。ミリちゃんは僕の事を本当に憎んでいて、僕の所に来た瞬間から僕に怒りをぶつけて衝動的に行動しようと暴れる。僕はその度にミリちゃんを抱きしめて、落ち着いてと繰り返し言いきかせて、ミリちゃんを眠らせようとする。ミリちゃんは素直に眠ってくれる時もあれば、もっともっと激しく怒る事もある。予測の全くつかない、僕の思う通りに全然いってくれない他者性が、ミリちゃんの一番の特徴だ。例え僕とミリちゃんの魂が繋がっていて、根が同一でも、ミリちゃんは僕と違う他者みたいだし、僕にはそうとしか思えないのだ。ミリちゃんの露呈する感情はあくまでもミリちゃんのものであって、僕のものではない。僕はミリちゃんをどうしても上手く理解できないし、そのせいでいつも混乱してしまう。それがミリちゃんの絶望と怒りを加速させているみたいに僕には見える。

ミリちゃんは僕の無理解に怒る。「私達の苦しみも怒りも分からない癖に、全部を私達に押し付けてのうのうと生きている癖に、偉そうにするな」と僕の非当事者性を詰って、僕の首を絞めて殺そうとする。ミリちゃんが怒るのはいつも僕の無理解と混乱についてだ。ミリちゃんは、僕が全部をミリちゃん達に押し付けて生きているのがどうしても赦せないみたいだった。辛い部分をミリちゃん達に押し付けたままで僕が中心になって僕のこの生を動かしているのが、ミリちゃんには我慢ならないようだ。そして多分それは正しくて、事実、僕は嫌な事を全部ミリちゃん達に押し付けて生きてきたし、今もそうやって生きているのだろう。だから僕はミリちゃんに怒鳴られるといつも押し黙る。ごめんね、と言う事は許されない。冷静に考えて僕がいないとミリちゃん達は真っ当に暮らす事すら出来ないからだ。もし僕が考えなしに謝って僕の生を明け渡してしまったら、いったい誰が僕たちの今の生活を保つことが出来るだろう。ミリちゃんに真っ当な生活が出来るとは、僕にはどうしても思えない。もし全部をミリちゃんに任せたら、多分ミリちゃんは一週間もしないうちに酷い事になって死んでしまうと思う。ミリちゃんはこの世界を生き抜くには些か衝動的過ぎる。ミリちゃんを生かすためにも、僕自身が生きるためにも、僕が赦しを乞う事は決して許されない。だから僕は押し黙る。ミリちゃんのためのサンドバックになる。そういう時、僕はいつも緩みそうになるミリちゃんを抱きしめる腕の力だけを保つ事に意識を集中させる。僕は死にたくないから、そしてミリちゃんを死なせたくないから、ミリちゃんの衝動的な行動を抑えないといけないという事だけを考えるようにしている。もしかしたら僕がこうやって黙ってしまう事もミリちゃんにとっては不愉快なのかもしれない。でも、こればっかりはミリちゃん本人に聞かないと分からない。聞いたって絶対答えてくれないと思うけれど。

ミリちゃんは過剰にヒステリックで、激しくて、幼くて、感情的で、理性がなくて、暴力的だ。僕への殺意を直接的に僕に突き付けて、感情的な叫びを僕に叩きつけて、僕を千切れてしまいそうな力で振り回す。ミリちゃんは現れるたびに僕の日常をかき乱し続けるし、僕はそれに戸惑って、困ってしまう。でも、僕はミリちゃんをとてもいい子だと思っている。何故なら、怒り狂うミリちゃんが使う主語はいつだって「私達」だからだ。ミリちゃんは自分のためだけに怒っているわけではなくて、誰かのためにも怒っている。誰かの怒りや悲しみや苦しみの分も背負って僕を詰る。だからミリちゃんはきっと本当は優しい子だ。優しくない子は他人の苦しみや怒りを背負ったりはしない。そんな優しい子をここまで怒らせる僕はよっぽど酷い人間だと思うし、おそらく実際そうなのだろうと思っている。恐らくミリちゃんたちから見れば、僕は共感の外にいる部外者で、それなのに僕たちの生活を冷酷な主体として指導している、まるで外から来た植民地支配者のようだろう。エイリアンのようだ。異邦人だ。自分達に共感をしようとしない人間に支配されているのは、許せないだろう。怒るのは当たり前じゃないかと思う。それにミリちゃんは僕に怒ってくれるだけましなのだ。ミリちゃんは僕が何度押し黙っても、それにめげずに何度でも怒りや衝動をぶつけてくる。ミリちゃんは僕に諦めを決して見せない。ミリちゃんが僕の前に現れたのは今年に入ってからだけれど、ずっと昔から一緒に住んでいる女の子が一人いる。女の子は僕に怒りすらしない。僕は女の子に思い出すのもおぞましい程の酷い事を沢山沢山したのに、女の子は僕なんて存在しないみたいに、自分の感情なんてまるでないみたいに(実際女の子には感情がないように見える)、僕の存在を無視してただじっとしている。そちらの方がよっぽど辛いのだ。ミリちゃんは同居者の代表として女の子の分まで怒ってくれているのではないかとすら思ってしまう。でもこれは希望的観測だ。そもそもミリちゃんと女の子が互いの存在を知っているのかすら僕には分からない。ミリちゃんの言う「私達」が一体だれを指しているのか、女の子とミリちゃんなのか、或いはミリちゃんと他のだれかなのか、そもそも「私達」がいったい何人なのかすら、僕には正確な所が全く分からないのだ。

僕はミリちゃんや女の子を幸せにするために生きていると思っている部分がある。あまりよくないと思うのだけれど、僕には重い責任があるのだ。ただ、たまにちょっとだけ疲れてしまう。僕も感情のある人間なので、他人の感情に振り回されるのは好まない。それが怒りや憎しみだったら尚更だ。唐突に現れて自分が眠りに就くまで僕への罵詈雑言を吐き続け殺意を向けるミリちゃんは、僕をかなり疲弊させて、参らせる。ミリちゃんが来ると、僕は僕の日常的作業を全部ストップさせてしまう事になる。ミリちゃんへの対応で僕の狭いキャパシティはいっぱいいっぱいになる。生きるか死ぬかの問題に関わってくるので仕方ないと思っているけれど、それでもミリちゃんが眠りについた時、僕は濃い疲労と共に思い切り安堵している。ミリちゃんが眠った事に対して、僕は毎回心底喜んでほっとしている。それについての罪悪感は拭えない。ミリちゃんが怒っているのは僕のせいなのに、僕はミリちゃんが眠って口を閉じる度に、これで罵詈雑言を聴かなくて済むし死ぬ心配もしなくてよいのだと安心しているのだ。僕は非常にエゴイスティックな人間だと思う。

ミリちゃんや女の子を幸せにする事を考える時、僕の幸せは後手後手になる。妙な話だと思う。魂が繋がっているならば、ミリちゃんを幸せにする事はすなわち僕を幸せにする事である筈なのに、全くそう感じないのだ。ただ、僕は酷い事をしてしまった他者達への贖罪としてそれを遂行しようとしているに過ぎない。それが僕自身を幸せにする事だという認識は欠如している。そうならば、僕はミリちゃんや女の子を幸せにして、それから僕自身を幸せにしないといけないのだろうか。それっていつになるのだろう、と考えると、少しだけ絶望してしまう。それでもミリちゃんがいなくなってしまえばいいのにと決して思わないのは、ミリちゃんと僕が魂で繋がっているからだろうし、なにより感情だけで動くミリちゃんが僕にとって魅力的だからだ。ミリちゃんは僕の気持ちを全部無視して思っている事を感情的に叫んで表現する。ミリちゃんの感情はしっかりと根をはっているみたいに見えて、僕の宙に浮かんでぼんやりとしたそれとは全然違っていて、ぶつけられる側としては内容的に辛いけれど、とても色鮮やかだ。正直に言えば、僕はそれが眩しくて、それに憧れて、羨ましいとすら思ってしまう。 ミリちゃんは生きている。自分の思うままに衝動的に行動するミリちゃんは、本当に生きている。僕とは違って、ミリちゃんは色鮮やかに鮮烈に生きている。多分僕はそれが羨ましい。僕はミリちゃんを完全に僕だけのものにしたいのだと思う。ミリちゃんの感情は激しすぎて、同一化したいとは全く思えないし思いたくもないのだけれど(ミリちゃんには悪いのだけれど、それを想像するだけで心底ゾッとする)、それでも僕はミリちゃんを僕のものにしたい。ミリちゃんを誰にも渡したくない。僕はミリちゃんの事が好きなのだと思う。

本当はミリちゃんの名前はミリちゃんなんかじゃない。ミリちゃんという呼び名は、僕が先ほど便宜上適当に付けただけの名前だ。ミリちゃんに名前はない。仮にミリちゃんに名前があるならば、それは僕と同じ名前である筈だ。魂が繋がっているというのは、つまりそういう事だと思う。おんなじ魂から生まれて、おんなじ見た目をしていて、表裏一体ですらない、ただの一体である筈のミリちゃんと僕は、それでも一体ではない。理解し合えない他者同士に近い間柄だ。傍から見れば哀しいのかもしれないけれど、僕は正直に言えばそう思っていない。色々考えた結果、そうならざるを得なかったのだと思う。でも多分ミリちゃんはそもそもそれが気にくわないのだと思う。やっぱりどうも噛み合わないな。それでも僕はミリちゃんのサンドバックになり続けるだろう。どれだけ疲れたって、どれだけミリちゃんが僕の事を憎んでいたって、それでも僕はやっぱりミリちゃんの事が好きなのだ。

=====

ミリちゃんと僕は本来的に同一で同等である筈だから、どっちの方に存在論的な優先性があるのかとか存在論的に依存してるのはどっちだとか、それこそグラウンディングだとか、そういう事を考えても意味がない。ミリちゃんと僕はそういう関係性にないと理解しているつもりでも、それでもふとした時にそういう事を考えて、ミリちゃんの方がより基礎的なんじゃないかなと恐ろしい可能性を考えてしまう。ミリちゃんと僕を比較する時、正直な話ミリちゃんの方が地面に脚をつけて生きている感じがするからだ。そういう怖い話は考えても無駄なんだけど、やっぱり人間ってそういう事を考えるものだ。僕はミリちゃんに嫌われていて憎まれてすらいるという実感があるから、どうしても怖くなる。僕は僕がいないとまともな生活を営めないという一点に僕の存在意義を賭けているのだけれど、もしミリちゃん達のうちの一人がまともな生活を営めるようになった時、僕の存在意義は途端に崩壊する。僕という人格と、ミリちゃんや女の子の人格は異なるから、僕という人格はその時どこにいけばいいのだろう。そういう意味で僕はミリちゃん達と闘争をしている。例えどれだけミリちゃんの事が好きでも、僕の存在意義を奪われるわけにはいかない。そういう意味でも僕はミリちゃんの事を完全に受け入れる訳にはいかない。時空間的に同一の位置を占める人間の中でややこしい闘争が起こっている。本人としては全く面白くないし切実だけれど、他人からすれば面白くて理解できなくて下らないのだろうと思う。まさにファースだ。衝撃的な笑劇だ。三文小説的だ。狂気の沙汰だ。

とまあこういう風に卑下して悲観的に考えるのは楽といえば楽なのだけれど、そう思うフェーズは通り過ぎてしまった。僕は「普通」と比べる時、端的に言って狂っている。僕は狂気に苛まれている。狂気を孕んで生きている。これは事実だ。狂人が「恋人欲しい」とか思ってよいのかという根深い道義的困惑が個人的にあるのだが、まあそれは別問題だ。つまり他人達をこの狂気に巻き込むのはその他人達を不幸にするのではないのか、それならば一人で生きた方がよいのではないか、さいだいたすーのさいだいこーふくとは、という気持ちが取れないというだけであって、なんかどうでもいい問題というか、多分「いや、別にいいでしょ何言ってだコイツ」程度で済ませておいてよいトリヴィアルな問題だと思う。

閑話休題。僕は狂気を抱えたままミリちゃん達と共存していく方法を考えたい。この狂気が消えるという事は、すなわちミリちゃん達か僕かのどちらか一方が消えてしまうという事だからだ。ミリちゃんは僕と共存したいと考えていないのかもしれないけれど、僕は共存したい。ミリちゃん達にも存続していて欲しいし、僕も存続したい。この素朴な欲求を満たす方法は多分あると思う。あると思いたいという事に過ぎないのかもしれないけれど、あると信じている。

ミリちゃんが僕に絶望して怒っているのと同じだけ、僕は希望を持って他者を赦していく事を目指す。こういう事を言うとミリちゃんにはブチ切れられるだろうけど、それが僕の思う僕達の関係性だ。ミリちゃんが僕の事をどう思っているのか正確に分からない今、僕が出来るのは結局それだけだと思う。

なんだか今日は長く書きすぎてしまった。ミリちゃんとの事はまだ書けるけれど、終えないとキリがない。女の子の事については全然書いていないけれど、女の子と僕の関係はもっと根深くて恐ろしくて真っ黒いものだからとても書ける事ではない。ミリちゃんとの事はどこかで乾いているから書けるけれど、女の子と僕の歴史は血と膿の濃い匂いに塗れた暴力の歴史だ。ぐっしょりと濡れていて、触るだけで破けてしまう。僕が女の子との事について語る時、カウンセリングルームは途端に懺悔室と化す。僕は涙を流しながら懺悔する。でもその懺悔はいくらしても意味をなさない。女の子には届かない。赦される時はとうの昔に過ぎ去ってしまったのだ。僕と女の子の間には、本当の暴力があり、本当の闘争があり、本当の虐殺があった。僕は多分一生赦されない。ミリちゃんは僕を憎んでいるけれど、僕に心を閉ざしているわけではない。でも、女の子は完全に僕をシャットアウトしていて、本当に何も分からない。何を考えていて、何がその身体の内に詰まっているのか分からない。僕の中にいる女の子は世界中のどの他者よりも圧倒的な他者だ。女の子には名付けすら許されない。存在しているのだけれど、その存在を僕が掴み取る事を女の子は許さない。正直女の子と呼ぶことすら憚られる。ただここにいる。ずっといる。今もいる。体積を持つ影のように、僕の後ろに常にいる。

これだけ読むとなんだかすごく怖いなあ。

書きすぎてしまった、と書いてからまた色々書いてしまった。今までのブログ記事で多分一番長い気がする。おやすみ世界。ちゃー。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ブログがある。ブログに書きたい事や書ける事が特にないのに、何の害にも利益にもならない文章を書きたいという欲求がある時が一番困る。

つまり疲れすぎると脳が覚醒しすぎてうまく眠れないので、脳の覚醒を緩めたい、よーするにリラックスさせたいので無為な文章でも書いてぼんやりと世界や文字の羅列を眺めたい、鮮烈さなどもう要らないという夜が確実にあり、今がまさにそれなのであるが、特に書きたい事がない。困る。

大体ブログなんて書きたい事がある時や或いは自分の人生についての考えを整理する時に書く、みたいなゆるふわなスタンスでやるのが個人的には一番楽なわけで、いつも自分勝手に書いてはそのまま放り投げている。アクセス解析なんかもあんまり見ない。このブログを読んでくれている人がいるのは正直に嬉しいのだけれど、それでもやっぱりちょっとだけ恥ずかしいのは、余りにも自由で自分勝手にこのブログが書かれているからだ。ツイッターの呟きの方がまだ見られている事を意識している。でまあ、なんか書こうと思いつつ、でも書きたいテーマが未だ特に見つからず、明らかに無駄な延命措置みたいな文章を書き続けているわけだけれども、何か書きたい事があっただろうか。色々とある筈なのに、結局手元には何も残っていない。いや、実際この手にはたくさんの考えや気持ちがある筈なのだけれど、言葉にできる程それらはソリッドじゃないという事だ。まだ液体で、熱くてデロデロしていて、掴めない事が多過ぎるのだ。もっと冷やさないと固体にならない。アレについて書きたいけれど言葉にならない、みたいな事が日常において重なり過ぎるとげんなりしてくるので、まあ何とか息を吹きかけてちょっとでも固体化させたい気持ちはある。でも自由に書いているブログにすら書けない類の気持ちだってある。大体言葉にならないのはそういう類の感情だ。更に面倒くさい。

それは例えば生まれ持った変えられない属性の事であったり、余りにも生々しすぎる事象についての事であったりする。(このブログを今書いている所謂「私」に限定されない)私が私としてそのまま生きる事の困難さについての事であったりする。

生みの苦しみか或いは死に絶える時の断末魔か分からない事象の観測が続いて、なんだか嫌だなと思う頻度は高まる。ぼんやりとした感情はぼんやりとし過ぎていて掴みどころがない。「嫌だな」という何とも心許ないふわりとした表現でしか表現できない歯がゆさと諦観がある。唯ぼんやりとした不安。もっと激しく赤く燃えねばならないのだろうか。今のように青く静かに燃えるだけでは足りないのだろうか。ただ、残念ながら私は激しく燃える事には向いていない。私が激しく燃える事が出来るのは、ただひとつにおいてだけだ。私は私が出来る範囲の事を行う事しか出来ないけれど、それは本当に本当に狭いから、そして何より確実に行使出来るわけではないから、まるで意味なんてないみたいだ。それでも恐らく燃えないよりかは燃えている方がましなのだ。

ぼんやりしている。なにせ平素のようにこれについて書こうと思って書いているわけではない。ただまるで自動書記のようにぼんやりと目的地も決めないまま書いている。ぼんやりとした感情について書いているから、ぼんやりした表現が続く。曖昧模糊で淡い色の、すりガラス越しの像のような文章。

苦しみや怒りや悲しみがそれぞれの人間の内にあって、それがちょっとでも減ったらいいなと単純に思っている。そしてそれに私も多分入っているのだと最近ふと思う。大きな進歩ではあるとは思う。他の人に対しては幸せを素直に願えるのに、自分についてはそうではないという歪みみたいなのがずっとあった。私の生を踏み台にして他人が幸せになれるのなら、私はそのためにだけ存在しているのだと信じていた。自分の幸せや自分の生なんて他人のそれに比べればちっぽけで価値なんてないから、私は他の価値のある存在を輝かせるためだけに存在するし、そうであるべきだと思っていた。私の生は常に他人のための生であって、私のための生ではなかった。これは私にとって歪みでもなんでもなかった。当たり前だった。でも、これは歪みなんだと最近ぼんやりだけれど分かってきた。私は私のための生の只中にいて、そして幸せになってもよいのだろう、多分。

治ってない今、こういう事を言うのはまだ早いけれど、去年と今年は私の人生にとって重要な地点だったのだと思う。一回完全に折れて、全てが焼けこげて何もなくなった更地に戻さないと、どうしようもないレベルまで到達していたのだろう。だからよかった、とまでは正直まだとても言えないけれど、死に絶える時の断末魔だと感じていた苦しみは、生みの苦しみだったのだ、とぼんやり思う。この半年、焼け果てた更地を耕してきた。冬が終わって春になるのが怖かった。春になっても何も起こらないのが怖かった。でも、冬を越して、春を通り過ぎて、夏になって、ようやく焼け野原にひょろりとした細い若葉が生えてきた感覚がある。大事に大事に育てたいと思う。結局何かしらの何かは生えてくる。生きてさえいれば。やっぱり生きているのは楽しいな、とまた思えただけで私は嬉しい。

自分の生は自分のためにあるのだという事をぽとりと落としている人はまあまあいる気がする。ぼんやりと何だかそれはとても嫌だし哀しいなと思う。だから、私がそれをぽとりと落として生きてきたのは何だか嫌で哀しい事に属する種類の事なのだろう、と繰り返し思わないとまた簡単にぽとぽと落ちていく。認知が歪んでいる事は分かっているけれど、それの修正にはやっぱり時間がかかる。気付いたら更地に建造中の家の柱が斜めになっていたりする。それを修正してまっすぐにしようとする。でもやっぱりまだ斜めだ、みたいな行ったり来たりの繰り返ししかないのだろう。27年生きてきてしみ込んだ認知をすぐに治す事なんで出来ないのだ。小さな家を少しずつ建てながら、畑を耕している。柱が斜めになってるよだとか畑に水やるの忘れているよだとかそういう事を教えてくれたり、まあゆっくりやりなよと言ってくれたり、斜めになってますか?と相談出来る人が周囲にいるのは、幸運だと思う。

ぼんやりしているから目的地がない、とさっき書いた気がするけど、本当に着地点がない。そろそろ打ち切らないと延々とどうでもいい事を書いてしまう気がするな。

他人の幸福を願うのはよい事だけれど、その前に自分の幸福を願ったっていいんだよ、と気付けたのは、きっと周囲の人たちのおかげだと思う。素敵な人が周囲に多過ぎて、私はそれだけで人生の内の幸福をほぼほぼ使ってしまっている気がする。

愛しています。着地点はいつでもきっと愛なんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

恋愛を舐めていた、というのが総論。

結局恋愛や結婚は老後への投資あるいは保険であって、それ以上の意味なんて見つけられないと思っていたし、そもそもそんなものないと思っていた。そりゃあ上手くもいかない。こんばんは、僕です。東京から夕方ごろ舞い戻ってきて、一時間ほど前に仮眠から復活した。今夜もおやすみ東京。切実にこの瞬間を生きる匿名の人々の気持ちを引き受けて、今日もビルはピカピカ光っているのだろう。濃ゆい紺色の空気が融解して蕩ける東京。

恋愛が諦念と奸智と計算された媚態と打算で成立していると思っていたのが全くの間違いだと分かったのは本当につい最近の話だ。僕にとって恋愛は根本的に支配‐被支配という暴力的な関係性だったから、被支配の側にいる人間は諦念でもって相手の要求を受け入れるしかないと思っていて、最初相手の機嫌を損ねないように使っていた媚び諂いは、いつからか(今思えば)支配者側への復讐の手段になり果て、毎日繰り返し計算された手練手管で媚びては、それを見て「お前は本当に馬鹿で可愛いな」と蕩けたように笑う元恋人に「もー、私馬鹿じゃないもん!」と笑いかけながら「こんな嘘に騙されるお前の方が馬鹿だろう」と心の中で嘲笑っていた。最後の四年くらいは相手を経済的な保険としか見ていなかった。我慢すれば代わりに経済的安定を得られると思って、また鬱憤を晴らすように男心にキュンとくる発言を繰り返す。これに関しては相手は完全なる被害者というか、本当に本当に申し訳ないと思っていて、私側の対応が考えうる限りでの最悪手だったのだ。そうやって僕の中での恋愛という関係性は歪みに歪み、そうして結果的には自重で潰れた。まあこんな感じで僕にとって恋愛という関係性はドロドロのコールタールみたいな闘争であり、欺瞞であり、今まで生きるために得てきた奸智を最大限に発揮する場であり、経済的保険だった。これはおそらく最底辺の人間の人非人的思考なので是非反面教師にして頂きたい。僕も今過去の自分を反面教師にしている。正直書いていて己の醜さに脳がつぶれそうで辛い。

そんなこんなで自分の手で歪みを加速させた関係性をこの手で終わらせて一年近く経ったわけで、冷静に思い返せる過去になって、ここに残っているのは猛省で、思ってもない事をさもそう考えているかのように言うのは悪手も悪手、最悪最低のディスコミュニケーションであって、私は何でそんな基本的な事に気付けなかったのだろうと悶々と考えてしまう。その時やっぱり冒頭に書いた恋愛を舐めていたという結論に達するわけで、まあ相手の色々もあったんだけど、やっぱりなにより僕自身が、恋愛という関係性が特別な輝きを持つものだと全く理解していなかったからだと思う。

きっと、恋愛とは他者である二人が出会い、乗り越え得ない壁をそれでも乗り越えようと足掻く奇跡的な関係性なのだ。恋愛においては、届き得ない他者を諦めるのではなく、届かないからこそ敢えて手を伸ばし続ける努力が必要なのだ。分からないで終わるのではなく、他者の分からなさやそれ故の不気味さを超えようとするのが、そして理不尽にもそれを超えたいと切実に望んでしまうのが、きっと恋愛だ。そういう風に決して超えられない壁を越えたいと思える人間に出会える事自体もきっと稀有で、奇跡で、眩いのだ。だからこそ、恋愛は美しくて、尊いのだ。だからこそ、誰よりも何よりもコミュニケートが大事で、そこで生じるコミュニケートは特別なものでなければならない筈なのだ。恋人とのセックスは特別だと言うけれど、通常誰も入らない領域に、己との超え得ない壁を乗り越えようと足掻いている他者が侵入してくる、だからこそ恋人とのセックスは欲求を散らすスポーツ以上のものになりうるのではないか。他者を特別な領域へと誘うという事が特別な意味を持つのは、相手が(そして自分が)無理だと分かっていながら、それでもお互いに境界を飛び越えて、いっそ溶けて混ざってしまいたいと思っているからではないか。それほどまでに相手を希求する事が、恋愛なのではないか。最近セックスしてないから分からないけど。うけぴ。

恋愛は凄い関係性だと最近突然気付いた。喫茶店で煙草を吸いながらコーヒー飲んでたら雷が落ちたみたいに気付いた。ゆりいか~~~!と叫びそうになった。恋愛はロマンチックだというのがさっぱり分からなかったのだが、今なら深く頷ける。諦めと受容の区別が今までつかなかった。恋愛のコツは諦めだと思っていた。でも、恋愛は諦めなんかじゃない。相手は他者で、分からなくて、不気味だからとそこで止まるのではなくて、相手の分からなさとそれ故の不気味さを超えようとする事、壁を超えてその向こう側に行きたいと願い続ける事。それが多分諦めではない受容だ。ゆりいか。

僕は元恋人に結局そんな感情を一回も抱けなくて、もしかしたらあれは恋愛ではなかったのかもしれない。僕はそういう意味では、実は恋愛をした事がないのかもしれな、アアー!なんて悲しい関係だったんだろう。相手が可哀想すぎて、なんかもう申し訳なさ過ぎて、ほんとにごめんなさいとしか言えない。相手は多分私の事をそういう意味で好きでいてくれたはずで、結局一方通行だったのかな。ああああ、もうほんとにごめん。私が悪かった部分も多大にある。まあ相手も私を受容しようとしていなかったから、お互いにとって不毛な関係だったのかもしれない。お互い幸福にならない。あのまま流れで結婚に突き進まなくてよかった。

君との関係性は様々な要因で歪んでちぎれちゃったから、もう二度と繋がる事はないけれど、せめて僕は君の幸福を願いたい。願ってやまない。

というわけで恋愛は美しい。僕も他人とそんな尊い関係性を築きたい。本当の意味で、恋人絶賛募集中。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

認知が歪んでる歪んでる!

肌がべたついて気持ち悪い。爪が紫色で気持ち悪い。人生ゆーても仕方ないことばっかりで気持ち悪い。夕飯に柔い豆腐をコンビニで買ったらスプーンでなく箸が付いてきた。トイレットペーパーの買い置きがなくなった。ついでに煙草もなくなった。ラヴ人類すらままならねえライヴ人間状態に、子供が戯れに崩したプリンみたいな柔い脳みそが無間地獄。到達するまで2000年延々落ちてく浮遊感に慣れようと足掻く事自体が既に地獄の様相を呈してて、ひたすら人生が寒い。これからが地獄の本番でありますよ、と耳元に纏わりつく羽虫みてえに甘ったるく囁くんじゃねえよ。

罪人は罪人らしくさっさと落ちておっ死んじまえ。

文月にもなったというのに寒くて堪らない。

認知が歪んでいるという事実は把握しているつもりだが恐らく把握しきれていない部分があるだろう。また、認知が歪んでいるという事実を仮に把握できていたとしても、それを修正する事は困難だ。じっくりことこと年月をかけ煮詰められ、それによって染みついた歪みはそう簡単にまっすぐにならない。分かっていても自分では何をどうする事も出来ないという状態がストレスになる。憂鬱だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

寝坊をした。急いで大学に行って授業を受けた。講義の後、指導教官に書類のサインを貰いに行き、そのまま30分ほど話した。話した、というよりも話を聞いていたと言った方が正しいのかもしれない。

一つ一つは通常の範囲にすっぽりと収まる日常的内容だった。しかしその些細な日常の話の積み重ねにこそ、生の息吹を感じる。小さな話は手に握り込みやすい。遠くの戦争よりも、他人の日常が私の生に色を付ける。

最近仕事が忙しいのだ、と彼は言った。話を聞けば実際忙しいであろうな、と容易に推察出来る内容だった。私は微笑んで「それはお忙しいですね」と曖昧な返答をした。ふと気を抜けば宙にぽっかりと浮かんでしまう位に軽やかな会話は、私が求めていた類の軽さだった。今の私が持てる程度の軽さだった。それは恐らく意外と人間関係について不器用である指導教官の気遣いだった。私が来たせいで、手のつけられないまま置かれた出来合いの弁当と目があった。

そのまま研究室に行き、研究室の帳簿を付けた。帳簿と実際の金額が合わず、首を傾げた。研究室費の数え間違いだろうと暫定的に結論を出して、学友の淹れたコーヒーを飲みながら暫く勉強をした。講義の最中からずっと、酷い雨が窓を叩いていた。

気付けば雨は止んでいた。太陽の光が雲間から見えすらしていた。そのまま地下鉄に乗り、街へと行った。気分転換は敢えてしようと思わなくては出来ない類のものだった。欲しかった漫画は売り切れていたので、その場でAmazonで注文し、違う本屋に行った。哲学書を買おうと思っていたのに、本棚の前に立った時には哲学書を買う気は失せていた。こんな事は今までなかったので、奇妙だった。欲しい本、読みたい本、読まなくてはならない本は目の前に沢山ある。しかし、何も手にしたくなかった。その時の私にとって、目の前の本達は、冷たく、息をしていない、ただの文字の集合が印刷された紙の束にしか見えなかった。一度は腕に抱いた本を、そっと本棚に戻した。これでよいのだ、としか思えなかった。

変だ。

今日は奇妙だと訝しがりながら、階下の文庫本のコーナーへと赴く。途端に紙の束は息を吹き返し、甘やかな「本」として現れる。よく分からなかった。疲れているのだと説得めいた結論を出した。疲れているから、頭の使う本を目にしたくなかったのだ、と思う事にした。或いは、今日は、平常潤い滴っている哲学書がパサついた無味乾燥な物になる日だったのかもしれない。今日だけは、そうだったのかもしれない。

『存在の耐えられない軽さ』と『結ぶ』を買った。『結ぶ』は昔買っていたかもしれない、とレジに向かいながら思った。すでに家にあるかもしれない。しかし、家の本棚に並ぶ小説を覚えていない程、私は小説と別離していた。十代の頃の私が聞けば信じられないと眉を顰めるだろう。あの頃は小説がなければ、文字通り生きていけなかった。

今はなくても、生きていけるのだろうか。それは違うのだろう。あの頃、本から得て蓄えた生きる力を削って生きているのだとずっと前から気付いていた。その蓄えた力が尽き果て、この私が今ここにある。結局、今も昔も、虚構を通してでしか現実に向かい合うという事が出来ない。私は本当に弱い人間なのだ。お笑いだ。

 

栄養バランスを考えてものを食べなさい、と昼間指導教官に言われたので、ファミリーレストランに入ってスパゲッティとほうれん草のソテーを頼んだ。スパゲッティを外で食べる時、東海林さだおのエッセイを必ず思い出す。スパゲッティをフォークで巻いて食べる人間は、スパゲッティを実際咀嚼している時間よりもスパゲッティをフォークに巻きつけている時間の方が長い、と東海林さだおは言っていた。つまり、スパゲッティをフォークに巻きつけて食べる人間は、スパゲッティを食べるというよりも、スパゲッティをフォークに巻きつけていると言った方が正しいのではないか。皆本当はうどんや蕎麦をすするようにしてスパゲッティを食べたいのに、人の目が気になってそれが出来ない。だから人はスパゲッティをフォークに巻きつけて食べる。そんなユーモアのあるエッセイだったと思う。外圧に関する哀しい話だ。

そんな事を考えながら、ぼんやりとスパゲッティを食べた。いつもより時間がかかった。冷房が効き過ぎていて、酷く寒い。

すっかり冷めきったほうれん草のソテーを食べながら、買った『存在の耐えられない軽さ』を読んだ。恋愛小説は基本的に読まない。この本は恋愛小説らしかった。恋も知らず、猜疑心で最後の最後には愛を退けてしまう弱い人間が恋愛小説を読むというのはそぐわない気がしていた。しかしそれを重く受け止めるのは明らかに馬鹿らしいので、煙草を薫せながら読んだ。ドン・ファンと言えば聞こえはいいが、一言で言ってしまえば結局遊び人である。そのような男が戸惑っていた。堪らなく哀しくなった。言葉が突き刺さるようで、十分の一程度読んだところでページを閉じた。

我々の存在は恐らく軽い。その軽さこそが愛おしいのだと信仰して生きてきた。重さを得られない通常の生は、うねりに耐え切れず醜く歪み、千切られる。千切れても誰も目に止めない、現れては消えていき、代替の別様が現れる事が至極当たり前の摂理であるような、そのような代替のきく生が美しくなくては、私の生は醜さで塗り潰されてしまう。だからこそ、私は軽さを愛しんできた。その軽さを愛する事は、直接には目も当てられない自らを、婉曲的に愛する術だったのかも知れない、とふと思った。私の信念は歪みに歪みきった自己愛によって致命的に穢されている。今はただその事実が哀しい。心臓の鼓動が鼓膜を震わせ、周囲の音を掻き消そうと騒ぐ。ひたすらに煩い。

 

ほうれん草のソテーをもうすぐ食べ終わる。そうしたら私はゆっくり歩きながら駅に行って、地下鉄に乗って帰るのだろう。肌に纏わりつく温い宵闇の中、歌でも歌って帰ろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

物をすり抜ける感覚に染められた指が、すり抜ける筈もない本を撫でる。ここは正しい世界だ。動きが緩慢になる。動きがやがて止まる。息をするたびに不気味に蠢く胸が、肉がはち切れんばかりに詰まっていて、只管に重い。肉体という存在の重さに耐えられなくなる。持っていた本が指先をすり抜け落ちていく。動かない肉体の中で、唯一眼球だけが忙しなく動き回る。動きが止まるという事がこんなにも楽だという事を皆知っているのだろうか。

動かない事が余りにも楽過ぎて、このままではずっと動かないままだと、無理矢理指先を動かす。ぎこちなく動く指は、依然として動く事を拒否しようと反発する。それでも動かし、先に動くようになった左手で動こうとしない右手を介護する。右手をひっぱり移動させ、ようやく曲がったままの腕を伸ばした。

空気の塊が喉をふさぐ。息が上手く出来ないのだ。騒ぐ心音が身体を震わせる。思わず喉を触る。指が喉をすり抜けそのまま肉体の内に飲み込まれていきそうで、少し寒気がした。

中心が揺らぐので、全てが揺らぐ。記憶が揺らぐので、ここが揺らぐ。諦めと受容の違いが分からない。どれが受容でどれが諦めなのか。私は諦めたのか、それとも私は受け入れたのか。諦めるべきなのか、受け入れるべきなのか、粘るべきなのか、拒絶するべきなのか、何も分からない。

気分転換をしよう。見てはならない。聴いてはならない。口を塞ぐのだ。急いてその先へと突き抜ける事を決して求めてはならない。

清浄で正常な性状へ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

覚醒と微睡の狭間はいつも手持無沙汰で、脚を無駄にブラブラさせてみたりする。

僕の脚。

僕の顔、僕の腕、僕の爪、僕の乳房、僕の骨。ライター、煙草、ベッド、床、壁、そもそもの、空間。手でベタベタと触っても、奥行きを試すように手を伸ばしても、まるで曖昧模糊な霧のように、のっぺりとした絵画のように、存在の確信は簡単に崩れ去る。いつもの事だ。慣れないと生きていけない類の、つまらない類の認識と感覚の歪みだ。慣れるのはいつになるのか。

慣れるのはいつになるのか、と思うと漠然と不安になる。

この歪みに歪んだ認識と感覚を持ったまま、通常の枠の中で生きるようになれるのだろうか。ライターを握る。ライターはこの手の中に存在する。それだけの事もはっきりと分からない癖に、真っ当に生きられるのか。

はやく治らないといけないと逸る感情は、どうしようもなく説明が出来ないからだ。他者に説明の出来ない、医者とカウンセラーと私という輪の中で完結させる必要のある僕の人生を、どう上手く換言すれば、どうパラフレーズすればよいのか。どのように他者を混乱に招き入れず緩やかにすり抜けていけばよいのか。正直、他者の理解は求めていない。ただ、理解を求めなければならない事態になってしまう可能性が怖いだけだ。

記憶のない諸々の行為の痕跡が怖かった。

講義の最中外に出た時の、記憶の茫漠さが恐ろしかった。当日の夕刻の時点で、午前中の出来事をまるで一年前に見た高熱時の悪夢のようにしか思い出せない事が恐ろしかった。駄目だ、全然上手く書けない。

講義室の反響が不味い。でも授業には出たい。授業に出るのをやめてしまったら、ダメになる気がする。迷惑を誰にもかけたくない。露呈するのは嫌だ。また手が誰のものか分からなくなる。このキーボードを打っている手が誰の手なのか分からない。私の手以外の何物でもない筈なのに、全く実感がわかない。嘘にしか感じない。知覚の全部が遠い。他人の知覚をなぞってるみたいに、他人の視覚した映像を見せられているみたいに遠い。あほらしい。ライターを強く噛む。