そもそもブログにある程度以上の量の文章を書けているという事自体が僕の気力がある程度復活しているか或いは精神と肉体がはち切れそうな時点から逃れられた証左なのであって、一番辛くて辛さを何らかの形で消し去らないと次の瞬間には暴力に呑まれてしまいそうな時点ではまとまった量の文章を書く事すら出来ない、そういう或る種の歯がゆさがあって、どうしようもないけれど、今日も私は無事にサヴァイヴしている。それを祝福する事から始めよう。誰も鳴らしてくれないなら、僕が僕のためだけにベルを鳴らそう。

私は生きていて、君も僕も私も生きている。世界は優雅に揺蕩って均衡を保っている。底の部分で掻き回されながら、見た目は飽くまでもゆるやかな凪だ。そんな柔らかい凪にぽちゃんと一人飛び込んだところで、何が起きる訳でもないだろうと考えるのは浅はかで、そこから波が立ち始めるかもしれない。そしてその結果、何かが損なわれるかもしれない。

結局僕がサヴァイヴ出来たのは、その可能性を与えられているからだ。

そういう呪いや禍根の可能性を残して死にたくない。様子のおかしい人間をそっとしておくという日常的な振る舞いを呪いに変えたくない。私は呪いを一方的に押し付けていなくなりたくない。いや、正確には呪いを押し付けたくない種類の人間には、呪いを押し付けたくない。それ以外の人間は知らない。どうでもいい。今の僕には「万人に」とは決して言えない。とにかく呪いを押し付けたくない人間には、呪いを押し付けたくない。生き残る理由なんて僕にとってはこんな自分勝手なトートロジーめいたものだけで十分だ。でもきっとそれは正しい事であり、正義だ。そんな些細な正義のために人間は戦えるのだ、と疲労でボー然とした脳みそで考えている。疲れた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ここ最近、睡眠は大事だな、と思って生きている。

薬の種類を変えてもらって一つ増やしてもらって眠れるようになった。悪夢にうなされて飛び起きるという事もなくなり、夢もあまり見なくなった。中途覚醒も多くて3回程度に抑えられている。頗る、頗る快適だ。麗しい睡眠。これでこそ甘やかで健全な現実逃避が成立するというものだ。二粒のちいちゃなちいちゃな錠剤が、「ねえ、現実逃避しようよ」と甘ったるい声で囁く。目を閉じれば、ヨーグルトみたいに緩くて柔らかな眠りが訪い、僕から現実世界を引き剥がす。夢の国よりも素敵なシャーベット・カラーのもう一つの世界は、ここにある世界よりも断然生々しくエロティックだ。眠りに絡み付かれキスをされ手を引かれ、そして裸にされた僕は眠りに落ちる。僕はその瞬間、誰よりも絶対的に生きている。

グッド・バイ、現実の欠けた現実世界。

乾ききって崩壊していく世界なんて、大嫌いだ。

 

とはいえ僕は日中この世界にいるので、色々な事をクールに考えたり行ったりしている。考えるのだ、行動するのだ、理不尽に勝つために。運命には勇気を。情念には理性を。猫にはカリカリを。私は負けない。負けそうになっても、例え爪が剥げたって、最期の瞬間まで僕は崖にしがみついてやる。

厄災は自らの中に取り込もうと、或いは自らから目を背けさせようと誘惑する。しかし、厄災に準備もなく突っ込んでも、厄災が消え去る筈もない。それから目を背けて生きても、厄災は消え去らない。それならば厄災の誘いに抗い、ただ茫然と立てばいい。今ここに。静かに、理性的に、淡々と、そして何より勇気をもって、ただ起こった事として、或いはただ起こっている事として、厄災を前にして、ただ立ち尽くす事。ただ、呆然とここに立ち竦むという事。立ち竦む僕が、今ここで立ち竦み続けているという事。暴風に乗って飛んでくるゴミを、僕が立てる程度の広さを確保するために日々片付ける事。ゴミに当たって怪我をしたら、それをなるべく早く治す事だけを考える事。それが自暴自棄にならないという事であるならば、僕は確かに自暴自棄になっていない。それが冷静に自分を見つめるという事ならば、僕は確かにそれが出来ている。なんか雰囲気かっこいい事を書いたけれど、正直そっちに突っ込む力もキャパシティもないというのが実情で、それの存在を感じながらひっきりなしに飛んでくるゴミを立つ場所確保のために片付けるだけで、ゴミが当たって怪我をした箇所の手当てだけで精一杯なのだ。でも、調子を崩した原因が厄災に飲み込まれてしまったという事ならば、そして数か月前の僕がそれから背を向けようとしていたのならば、それを見つめながらそれから少しずつ距離を取れているという事自体が良いニュースだろう。その厄災が消え去るのにとても長い時間がかかるというのならば、それに絶望せず、飲み込まれず、その間よりよく生きていける方法を模索すればいい。それが僕なりのあの子への贖罪であり、僕なりの戦い方であり、そして何より僕にとっての、私にとっての圧倒的な希望なのだ。

と、こういう風に負けない気持ちになるためには睡眠が肝要である。何度でも言う。寝ないと人間は駄目になるのだ。何でかって言うと、ポジティブが全部奪われるからだ。一個前に描いた僕のブログ記事を見たら分かるけど、ポジティブの欠片もない。出来る範囲でいいから人類は全員眠れ。理不尽な厄災と見つめ合う力を保ち続けるために、僕たちは目を瞑ってそれを一旦忘れる必要があるのだ。ちゃんと寝る人間は格好いい。ちゃんと寝る人間はクール・オブ・クールだ。眠りを手にすれば私は無敵で、途端に倒せないラスボスになれる。というわけで、眠れてる今を維持する事だけを考えて暫く生きます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

所詮夢だろう、と片付ける事が出来なかったから、今日は本当に何も出来なかった。勉強は明日に回す、たまっている事務仕事も明日に回す、全部を無責任に明日に回して、忙しない動悸を感じながらずっと布団の中にいた。さっき急用の確認メールだけ返したから、もういい。

「あんたには自分で選んだものは何も似合わない。あんたは幸せになれない」と笑いながら高らかに告げるあの人に「違う!そんなわけがない!」とめちゃくちゃに叫びながら近付いたけれど、そこは水の中だったから全然近付けずに届かずにそこで起きた。勝てない。夢の中ですら、私は呪いに勝てない。

所詮夢だ、と言い聞かせるのは簡単そうで、でも無理だった。それをするには、私は現実よりも現実めいた悪夢を見過ぎた。

悪夢を見ては起き、寝てはまた悪夢を見て起きる。家に侵入してきた見知らぬ人間に襲われる直前で起きる。寝ては何も見えない真っ暗な実家の中でただ独り彷徨っては起きる。寝ては嫌な雰囲気の広大なスーパーマーケットで迷い見知らぬ怖い人間に絡まれては起きる。寝てはまた最初に見た悪夢に出てきた見知らぬ人間に襲われる直前でまた起きる。吸っていた煙草の火で抵抗しようと思った。でも出来なかった。私はただ棒立ちで自分がこれから暴力により徹底的に損なわれるのだという事を無感動に認識するだけだった。

ほぼ毎日のように見る悪夢に気力が削られていく。何も残らない。諸々の薬も夢には勝てない。寝ては起き、寝ては起き、寝ては起きる。自分の荒い息遣いと煩い心臓の鼓動を聞きながら毎回寝ては起きる。私は幸せになってもいいんだとようやく思えたのに、すぐに私に追いついた呪いは今度は夢に侵食する。私は自分で選んだものを人生において身につけられる。私は幸せになれる。ぼんやりと形どられつつあった希望は雲散霧消していく。

悪夢の中で。所詮ただの夢によって。よりにもよって、あの人の手で。

私が自分で選んだものは、結局私には何にも似合っていない。

私は幸せになれない。

そんなわけない、違う、そんなわけがない、という叫びは届かなかった。それが所詮虚勢かもしれない時、じゃあ本当は?

哀しい。辛い。疲れた。もう嫌だ。全部が嫌で嫌でたまらない。全てが邪悪な暴力へと変容していく悪夢も、遠くなり果てた現実も、自分の存在の確信すら持てなくなった私も。全部手放せたらどんなに楽だろう。全部なかった事にして生きられたらどんなに楽だろう。いっそ全部に背を向けて諸手を挙げて敗北出来たら、どんなに楽なんだろう。

そんな事絶対にさせない、現実から目を逸らす事は絶対に許さない、絶対にお前はお前の力だけを以ってしてお前を救うのだ、と据わった目で毎回私に言い放つ自分がストイック過ぎて正直疲れた。

もうやだよ、助けてよ、と言いたい。でもそれを言っても誰が何をできる訳でもない。誰に助けを求めればいいのかも分からない。誰が手を握ってくれるのか分からない。少なくとも半径10メートルにいる周囲の人間にはきっと何も言えない。周囲にいる人間に受け入れられなかったら今度こそ決定的にダメになるから、それが怖い。誰かの責任を追及しても改善なんかしない。そもそも責任追及なんかしたくない。追及したところで過去を無かった事になんて出来ない。仮に追及しても過去から続く現在は何も良い方向へは転がらない。寧ろ悪い方向へと進む。分かり切っている。くだらない程に分かり切っている。ただ延々と泣きたい。でも泣けない。例え表層で誰かが泣けたとしても、ここにいる私は泣けない。ただ誰かが泣いているのをぼんやり見つめているだけで、その時私がするのは、もうちょっと泣いた方がいいだろうとか、そろそろ泣き止みなさいとか、そういう類の判断を下す事くらいで、私は決して泣けない。

じゃあ私はどうすればいいのよ。じゃあどうしたらいいのよ。私は何をしたらいいのよ。私は何をどうしたら自分を救えるのよ。こんなクソみたいな現実から悪夢から全部から救われるのよ。わかんないんだよ。削れて奪われてく日常をどうしようもなく指をくわえて見てるしかないんだよ。なにそれ。狂ってる。狂ってる。狂ってる狂ってる狂ってる。狂ってる。

あー、狂っている。薬を飲んだ。狂ってる。歪んでる。軋んでる。狂ってる。

ほんっと、笑える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

毎晩シャワーを浴びる頃には精魂力尽き果てていて、浴槽に座り込んで目を瞑って、目の裏側でひっきりなしに弾けては消えていく鮮烈な毒々しい水色を見ている。水色の裏で展開されている唐突なイメージが薄っすら透けていて、あ、浮かんだ肋骨みたい、なんてさ。なんでこんなどぎつい水色なんだろーと思うけど、多分意味を求めてもそこに明確な意味なんて用意されてないから、考えるだけ無駄。考えるだけ無駄で、求めるだけ無駄で、でもそういうのを諦めたくないと思って、熱いシャワーを浴びながらぼんやり考えるけどやっぱり分かんないし。やっぱ分かんないわ、と思って目を開けると、別の仕方の何かが用意されてる。何だろうね、これ。こういうの、本当にほとほと疲れた。

一番重要なファンダメンタルなベーシックな部分はちゃんとおさえる事が出来てるからそこに関してはマジで大丈夫なんだけど、だからといって現状の症状サムシングが全く止まらないのがやっかいで、また全部が柔らかくなっていってああもう駄目だ歩いてる筈なのに歩いてる感覚すら上手くつかめない何で自分が移動してるのかいまいち分かんない自分が存在してるのかも定かではない私を含めた全部の存在者がゆるふわに溶解していく世界に、ああーダメですお客様いけませんいけませんお客様的ないつものやつ。あーもう正直狂いそう。道端で蹲りたくなる。いつまで経っても慣れない気分の悪さに辟易して、手法がお手軽なものだからついつい手の甲をつねって自分の存在を確認したくなるのに、生じた筈の痛みすら断絶されて自分のものだって感じないのがただただ謎だし、痛みが断絶されてるが故に強さの調節が全く出来ないのもほんと馬鹿っぽくてウケる。手をつねる度に、代わりに手を握ってくれる人でもいたら、ひょっとしたらこんな事しなくてもいいのかなーとか一瞬思うけど、そういう都合の良い人間なんているかよっていう。マジで面白い事にそういう人はいないので仕方ない。仕方ないのだけど、どうもこういうのって、一人で背負って生きるのって、疲れるよな。こういう風にもうへとへとに疲れると、たまに誰かに思い切り責任を放り投げてみたくなる。生じた全部を誰かに押し付けちゃいたい。誰かの持ってくる幸せを食べるだけの係になりたい。誰かが運んでくる甘ったるいだけの栄養のないピンク色の生クリームみたいに蕩ける何かを食べて文句ばっかり言う我儘な係になりたい。でもそんなのありえないし、あったとしても仮初で意味のないものだからって分かってるんだけど、それでもたまにはさあ、思うくらい許してよ。せめて誰かの胸の中で眠れば悪夢も見ないのかしら、自分の大声で起きても隣に誰かいれば怖くないのかしら、思い切り抱きしめてもらえれば手に痣を作らなくてもいいのかしら、自分が存在していると分かるのかしら、とゲロ吐くくらい甘ったるい夢想をする乙女チック人間モードくらいは許してよ。僕だってぇ、人間だからぁ、最近ほぼ毎晩のように悪夢だのおかしな夢だのをひっきりなしに見て、起きたら今度は現実がまるで夢みたいにあやふやで掴みどころがないし、もう、正直こんなこたあ言いたかないけど、もう生きてるだけで疲れるんですよ。なんか、もう。何が何だか。このままだとまた歩けなくなる。

僕は戦う前から勝つ事を約束されてるんだけど、実際取っ組み合って戦うのは僕一人なわけで。勿論武器作ってくれたりとか、傷の治療をしてくれたりとか、ご飯作ってくれたりとか、そういうのはあるけど、ペシミスティックな見方をしてしまうと、結局僕の戦場に入り込んでくる人間なんて一人もいないんだよね。事実は硬質で、殴られると痛い。自分で自分の考える形の幸福を手に入れる事を諦めないで戦い続けるのがかっこいいって知ってるから頑張ってるけど、正直疲れる。全部自分の責任にするのは正直きつい。きつい事が一人で出来る人だからこそ、かっこいい人なのかな。そういう事じゃないと思うんだけどな。よく分かんないけど、もう無理だよ~ひとりじゃ戦えないよ~ってなっても、かっこいい人は多分かっこいいんだと思う。私はそれを言えないから、かっこよくないのかな。そうかもしれないね。でも本当の事を言うと、僕は誰にそれを言えばいいかの判断が全く付かないんだ。引かれそうで怖いんだ。寄りかかると皆辟易して去っていくのが怖いんだ。裏切られるのが怖いんだ。そういう経験ばかりしてきたそういう人間なんだ。ほんとマジウケる。何で生きてんの?

こんなへとへとになって疲れきってまで何で生きてんの?

もうそれこそ盲目的な生命衝動。ただ生きたい、そう思っちゃう才能に恵まれてんの。おめでとう。よかったね。よかったよ。その分苦しんだとしても、生きてる方が何億倍もマシだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

以前描いた反面教師的クッキー〇リッカーあるある漫画をフォルダから発掘したのであげておきますね。皆さんこれを見て私と一緒に反省してください。これは義務だ。

 

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因みに僕は家では眼鏡です。情報です。

日記漫画をもう一つ見つけました。ついでに載せておきます。今日の私はお得ですね。別名は恥知らずです。世間ではそうともいうのか。世間に疎いから知らなかった。

 

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生の実感は重要です。テストに出ます。因みにスカした書き込みはその場で光の速さで消しました。人は光速になれる。これもテストに出ます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そんなつもりじゃなかった」「そんなにお前が傷付いているなんて思わなかった」「良かれと思ってしたのは分かって欲しい」といったような諸々の発言を「そうか、なら仕方ないな」と思って流すのをやめようと決意した人生であった筈なのだが、実際そう言われると、私の中にある中途半端な優しさ的部分が刺激され、ぐぬぬ、と心の中で唸ってしまう。そしてその結果「大丈夫、気にしてない」的な当たり障りのない返答をしてしまう。でもやっぱり、僕はその類の甘えの存在に負けないし、負けるべきでもなく、断固としてその存在を少しでもこの世界から滅していきたい。我々は想像力を最大限駆使して生きるべきであって、それが世界をよりよくすると私は強く信じているからだ。自戒も込めて。

そんなこんなでブログを新しくした。僕であり私であり私である。こんばんは。

私は「僕」という一人称が個人的にかなり好きで、ネット上では頻繁に使う。男の人は一人称がいっぱい使えてずるいや!みたいな気持ちが昔からあったのだが、ある日「ていうか女でも色んな一人称使っても別に全然いいじゃんか」という気付きがあったので、僕はネット上では僕になり、私になり、俺になる。頻繁にコロコロと変わる一人称のどこが悪いんだ、という気持ちがある。リアルでは私という一人称しか使わないけれど、ネット上の私とリアルの私はやっぱり同じようで微妙に違うもので、インターネットという仮想空間の私はリアルの私よりも色々な意味で自由だから、文脈と気分によって簡単に変わる一人称は自由の象徴なのかもしれない。私はどこかで縛られた私であって、僕はもっと自由な僕だ。自由な飛んでいく僕だ。世界をどこまでも泳いでいける僕だ。結局私は私という呪いに縛られない自分が欲しかったので、僕という一人称を手に入れたのだ。これはある種の現実逃避であるが、ある種の現実逃避は万人に必要な逃げ場である。呪われた現実と対峙し続けるのは、端的に疲れる。自分は呪いに損なわれ続ける身体であり精神であるという事を見せつけられるのは、辛いものだ。

「そんなつもりじゃなかった」という言い訳は、自分が(図らずも)かけた呪いを呪った相手に全部押し付ける呪いだ。自分はそういうつもりではなかったのだから、といって呪いをかけてしまった事実から逃避する格好の言葉選びだ。この種の現実逃避はしてはならないのではないか、と思う。僕たちは他者に呪いをかけなければ、他者を暴力に晒さなければ、そもそも生きていけない存在者だけれども、呪いをかけてしまったという事、暴力に晒してしまったという事から逃避してよいわけではない。僕たちは、自分が他者を損ないながら暴力をふるいながら呪いをかけながら生きているという事を忘れるべきではないし、それを背負って生きていかなければならない。厳しすぎるだろうか。厳しすぎるかもしれない。けれども、僕は忘れたくないし、それを忘れてしまうくらいならば、一生それを背負って悔恨しながら、その呪いの一片を咥えながら生き続けたい。

他者の人生は絶対的に替えのきかないものなのに、それを忘れて僕も含めて人間はついつい簡単に触ってしまうけれど、本来はそんな簡単に触ってよいものではないと思う。触って変形してしまったものは、すぐに戻るかも知れないし、かなりの時間をかけて戻るかも知れないし、ひょっとしたらもう一生戻らないかもしれないし、もっとひどく違う形で変形していくかもしれない。それが根幹に関わるものであるならば尚更で、他者の根幹に関わるものに無責任に触ってその後何もせずに放置する人間たちをこの目で何度も見て、僕は激しい怒り(憎しみと言ってもいいレベルだ)を感じながら生きてきたし、この怒りは正直正義だとすら思っている。でもやっぱり僕も人間だから、何も考えずに誰かを傷付けてしまう事は何度も何度もあったし、今だってあるかもしれないし、今後もあるだろう。でも、その可能性すらも悔恨しながら全部背負って生きていきたい。罪を背負って生きる時、きっと何も考えずに他者を呪ってしまう事は少なくなっていくと信じている。呪いが最終的には全部を歪ませていく事をこの身をもって知っている人間だからこそ、ちょっとでも世界から呪いをなくしていきたい。これがきっと私の出来る贖罪なんだと思っている。私は全体的に弱い個体だから、直接呪いと戦ってそれを少なくしていくのは難しい。だから、こうやって少なくしていきたい。僕が持ちうる限りの想像力を駆使して、僕が呪いをなるべく再生産しないようにして生きる事。他人は絶対的に他人であると肝に銘じながら生きる事。他人の人生を最大限大事にしようと意識して生きる事。目の前の人間が替えのきかない他人そのものであるという事実を思いながら生きる事。

呪いに蝕まれながら生きるのはとてつもなく辛い。そして自分を蝕み始めた呪いを振り切るのは非常に難しい。赤黒く青黒く斑になった醜い自分の手を見るたびに、骨の浮かんだ自分の醜い身体を見るたびに、私が奪われていくたびに、僕は思う。呪われた現実に対峙するというのは、つまり、こういう事なんだ。呪われた人間達が呪われた生を生きるためには、自らを醜く傷つけさえしなければならなくなるのだ。こんなのは正しくない。フェアじゃない。おかしい。狂っている。こんなのは世界に存在するべきではない種類の生だ。自分を傷付けないと自分が生きられないなんて、おかしいじゃないか。だって私だって、他人から見ればきっと替えのきかない他人である筈なのだ。こんな狂った歪んだ呪いは絶対に憤られるべきものであるし、世界にあってはならない種類のものだ。だから、私は毎日負けそうになりながら、毎日翻弄されながら、それでもギリギリの崖っぷちで、よりよい生を目指して戦っていく。その存在を断固として許さずに生きていく。私は私を絶対取り戻すし、他者にこんな思いを絶対させてやるものか。人間は尊ばれるべきものであり、損なわれ呪われるべきものではない。海底に潜む何者かに一方的に齧られ啜られ蹂躙され損なわれて生きるべきものではないのだ。もっと高価で、貴い、かけがえのない、そういう存在なのだ。僕たちは、本来的にそういう存在としてあるべきなのだ。損なわない、呪わない、暴力を振るわない、そういった事が根源的に不可能であると知りながらも、それでもそれを最小限に抑え続ける事を目指して生きるべき存在なのだ。

負けそうになっても、辛くて堪らなくなっても、混乱して何も出来なくなっても、自己同一性がぼやけていっても、現実がガリガリと削られていっても、僕はきっと大丈夫だ、長期的に見れば僕は回復していっているんだ、と馬鹿の一つ覚えみたいにギリギリで自分を信じる事が出来ているのは、これが正義だときっと心の奥底から信じ切っているからだ。

僕達は、私達は、最後には栄光の向こう側に悠然と立つ圧倒的勝者になるんだ。上手く書けなかったけど、そういう事です。