「そんなつもりじゃなかった」「そんなにお前が傷付いているなんて思わなかった」「良かれと思ってしたのは分かって欲しい」といったような諸々の発言を「そうか、なら仕方ないな」と思って流すのをやめようと決意した人生であった筈なのだが、実際そう言われると、私の中にある中途半端な優しさ的部分が刺激され、ぐぬぬ、と心の中で唸ってしまう。そしてその結果「大丈夫、気にしてない」的な当たり障りのない返答をしてしまう。でもやっぱり、僕はその類の甘えの存在に負けないし、負けるべきでもなく、断固としてその存在を少しでもこの世界から滅していきたい。我々は想像力を最大限駆使して生きるべきであって、それが世界をよりよくすると私は強く信じているからだ。自戒も込めて。

そんなこんなでブログを新しくした。僕であり私であり私である。こんばんは。

私は「僕」という一人称が個人的にかなり好きで、ネット上では頻繁に使う。男の人は一人称がいっぱい使えてずるいや!みたいな気持ちが昔からあったのだが、ある日「ていうか女でも色んな一人称使っても別に全然いいじゃんか」という気付きがあったので、僕はネット上では僕になり、私になり、俺になる。頻繁にコロコロと変わる一人称のどこが悪いんだ、という気持ちがある。リアルでは私という一人称しか使わないけれど、ネット上の私とリアルの私はやっぱり同じようで微妙に違うもので、インターネットという仮想空間の私はリアルの私よりも色々な意味で自由だから、文脈と気分によって簡単に変わる一人称は自由の象徴なのかもしれない。私はどこかで縛られた私であって、僕はもっと自由な僕だ。自由な飛んでいく僕だ。世界をどこまでも泳いでいける僕だ。結局私は私という呪いに縛られない自分が欲しかったので、僕という一人称を手に入れたのだ。これはある種の現実逃避であるが、ある種の現実逃避は万人に必要な逃げ場である。呪われた現実と対峙し続けるのは、端的に疲れる。自分は呪いに損なわれ続ける身体であり精神であるという事を見せつけられるのは、辛いものだ。

「そんなつもりじゃなかった」という言い訳は、自分が(図らずも)かけた呪いを呪った相手に全部押し付ける呪いだ。自分はそういうつもりではなかったのだから、といって呪いをかけてしまった事実から逃避する格好の言葉選びだ。この種の現実逃避はしてはならないのではないか、と思う。僕たちは他者に呪いをかけなければ、他者を暴力に晒さなければ、そもそも生きていけない存在者だけれども、呪いをかけてしまったという事、暴力に晒してしまったという事から逃避してよいわけではない。僕たちは、自分が他者を損ないながら暴力をふるいながら呪いをかけながら生きているという事を忘れるべきではないし、それを背負って生きていかなければならない。厳しすぎるだろうか。厳しすぎるかもしれない。けれども、僕は忘れたくないし、それを忘れてしまうくらいならば、一生それを背負って悔恨しながら、その呪いの一片を咥えながら生き続けたい。

他者の人生は絶対的に替えのきかないものなのに、それを忘れて僕も含めて人間はついつい簡単に触ってしまうけれど、本来はそんな簡単に触ってよいものではないと思う。触って変形してしまったものは、すぐに戻るかも知れないし、かなりの時間をかけて戻るかも知れないし、ひょっとしたらもう一生戻らないかもしれないし、もっとひどく違う形で変形していくかもしれない。それが根幹に関わるものであるならば尚更で、他者の根幹に関わるものに無責任に触ってその後何もせずに放置する人間たちをこの目で何度も見て、僕は激しい怒り(憎しみと言ってもいいレベルだ)を感じながら生きてきたし、この怒りは正直正義だとすら思っている。でもやっぱり僕も人間だから、何も考えずに誰かを傷付けてしまう事は何度も何度もあったし、今だってあるかもしれないし、今後もあるだろう。でも、その可能性すらも悔恨しながら全部背負って生きていきたい。罪を背負って生きる時、きっと何も考えずに他者を呪ってしまう事は少なくなっていくと信じている。呪いが最終的には全部を歪ませていく事をこの身をもって知っている人間だからこそ、ちょっとでも世界から呪いをなくしていきたい。これがきっと私の出来る贖罪なんだと思っている。私は全体的に弱い個体だから、直接呪いと戦ってそれを少なくしていくのは難しい。だから、こうやって少なくしていきたい。僕が持ちうる限りの想像力を駆使して、僕が呪いをなるべく再生産しないようにして生きる事。他人は絶対的に他人であると肝に銘じながら生きる事。他人の人生を最大限大事にしようと意識して生きる事。目の前の人間が替えのきかない他人そのものであるという事実を思いながら生きる事。

呪いに蝕まれながら生きるのはとてつもなく辛い。そして自分を蝕み始めた呪いを振り切るのは非常に難しい。赤黒く青黒く斑になった醜い自分の手を見るたびに、骨の浮かんだ自分の醜い身体を見るたびに、私が奪われていくたびに、僕は思う。呪われた現実に対峙するというのは、つまり、こういう事なんだ。呪われた人間達が呪われた生を生きるためには、自らを醜く傷つけさえしなければならなくなるのだ。こんなのは正しくない。フェアじゃない。おかしい。狂っている。こんなのは世界に存在するべきではない種類の生だ。自分を傷付けないと自分が生きられないなんて、おかしいじゃないか。だって私だって、他人から見ればきっと替えのきかない他人である筈なのだ。こんな狂った歪んだ呪いは絶対に憤られるべきものであるし、世界にあってはならない種類のものだ。だから、私は毎日負けそうになりながら、毎日翻弄されながら、それでもギリギリの崖っぷちで、よりよい生を目指して戦っていく。その存在を断固として許さずに生きていく。私は私を絶対取り戻すし、他者にこんな思いを絶対させてやるものか。人間は尊ばれるべきものであり、損なわれ呪われるべきものではない。海底に潜む何者かに一方的に齧られ啜られ蹂躙され損なわれて生きるべきものではないのだ。もっと高価で、貴い、かけがえのない、そういう存在なのだ。僕たちは、本来的にそういう存在としてあるべきなのだ。損なわない、呪わない、暴力を振るわない、そういった事が根源的に不可能であると知りながらも、それでもそれを最小限に抑え続ける事を目指して生きるべき存在なのだ。

負けそうになっても、辛くて堪らなくなっても、混乱して何も出来なくなっても、自己同一性がぼやけていっても、現実がガリガリと削られていっても、僕はきっと大丈夫だ、長期的に見れば僕は回復していっているんだ、と馬鹿の一つ覚えみたいにギリギリで自分を信じる事が出来ているのは、これが正義だときっと心の奥底から信じ切っているからだ。

僕達は、私達は、最後には栄光の向こう側に悠然と立つ圧倒的勝者になるんだ。上手く書けなかったけど、そういう事です。